守るも攻むるも黒鐵の…
今冬は、鹿児島もいつまでも寒い日が続き、風が強かった昨日、コートを持たずに出たことを悔いました。
焼酎のお湯割で身体を温めながらでしょう。鹿児島市を流れる甲突河畔の遊歩道では、桜の枝が空に刺さるのを眺めての酒宴の客が、ブルーシートの上で、白煙を上げてのバーベキューを楽しんでおられました。
もう、4月ですもんね。いくぶん寒さが和らぎ、早い起床も苦でなくなったのは有難いことです。
農家の庭先の鶏の如く、せわしく仕事を拾って暮らしておりますが、先月は、鹿児島県大隅半島最南端の南大隅町というところへ行って参りました。図書館で開催された、朗読についての講座に、講師としてお招きいただいたからです。お陰様で楽しい講座になりました。
帰りは、役場の方に、大隅半島と、鹿児島市のある薩摩半島とを結ぶ、垂水フェリーの乗り場まで送っていただきましたが、途中、お願いして寄っていただいたのが、写真の瀬戸口藤吉翁之碑。
瀬戸口藤吉って誰?という方は、こちらをご覧ください。
行進曲『軍艦』を作曲した瀬戸口藤吉は、鹿児島県垂水市の出身と言われ、垂水市には、写真のような立派な碑が建てられています。
ところで、母の旧姓は瀬戸口。とうの昔に紛失しましたが、戦争の影、色濃い時代なはずなのに、少女時代の母の、のどかな写真ばかりのアルバムに、1枚だけ、戦争を現実のものと認識させる写真が紛れていました。勲章の並ぶ軍服に身を包んだ立派なおじさんの肖像は、『軍艦マーチ』の作曲者で、縁戚だと聞いた記憶があるのです。
母は一人っ子でしたし、37年も前に他界しましたので、今となっては確認のしようがないのですが、爾来、瀬戸口藤吉は近しい存在として、常に、意識下にありました。
しかし、私の青春は中道左派が適当かという時代。ご多分に洩れず、保守に対して強い抵抗があり、軍隊を悪しきものと考えることに、長いこと、疑問を持たずにいました。
子供の頃から、アイーダの『凱旋行進曲』や、リヒャルトでないワーグナーの『双頭の鷲の旗の下に』、それにラデツキー行進曲などを好んで聞いておりました。今、あらためて行進曲『軍艦』は名曲だなと、何度も聴き直しています。パチンコ屋の音楽にしたバカは、どこのどいつだと、憤怒しております。
来年は、明治維新150年。瀬戸口藤吉生誕150年。
瀬戸口藤吉の碑を訪ねたのは、その音楽性の高さを再評価したいとの思いからと、名曲が生まれる過程に、どんなドラマがあったのだろうとの職業的好奇心からでありました。
さて、4月3日、月曜日。今年も花見は無理そうです。農家の庭先の鶏の如く、せわしく仕事を拾って暮らしておりますから。
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