A Streetcar Named Desire
鹿児島での私は、路面電車が主な交通機関だ。片道170円である。
晴れ渡った、日曜の鹿児島。七五三だろう。お粧しの三人姉妹が、電車で仲良くはしゃいでいる。
それぞれのポケットに、チョコレートのプラスティク容器が覗く彼女たちの晴れ着は、華やいだ色合いだが、流行りの量販店のペロンとした素材だ。
真ん中に座る子どものシルバーの靴は、少し擦れて、つま先が白くなっている。
家族は、彼女たちの両親も含め5人。ただ、7人分の席を占拠している。
前歯も、化粧っ気もない母親は、小太りだが、色が不健康に黒く、年齢不詳。
父親も子供の晴れ着とは対照的な、着古したグレーのポロシャツに、ところどころシミのあるズボンで大きな腹を隠し、眠りこけていた。
何やらジャンケンで始まる遊びで、子供は子供らしくはしゃぐ。そこに、小さな花壇があるように愛らしい。
なぜか、母親は、真ん中に座る長女らしき子どもだけに、「静かにしなさい」と注意をする。が、混んでいる車内で、自分たちが少々広めに席を占拠していることには、気づいていない。もちろん、悪意などない。
指摘すれば、恐縮した母親に、子供たちが叱られるかもしれない。
とにかく子供達を微笑ましく眺めていたら、その視線に気づいたようで、3人でこちらを見ぬふりをして、何やらひそひそ声で話し始めた。その直後、電車は高見馬場交差点で右折した。
一家が、照国神社という大きな鳥居のある神社の最寄りの、天文館停留所で降り、雑踏に紛れるのを、目の端で見送った。
鹿児島市の予算の10分の1は、生活保護に回されていると聞いたことがある。
ブログやSNSには、友人たちの、過不足ない食事や、仲間とご満悦の表情、風光明媚な旅の風景が並ぶが、それは、鹿児島の一部に過ぎない。
こうして、切ないが、小さな幸福を目の当たりにする電車内こそ、鹿児島市民の縮図である。
目の前の子供達の、息災を祈ることしかできない、今の私の境遇も、残念でならない。
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